Van Halenの最高傑作

 

偉大なロックギタリスト、Eddie Van Halenが亡くなってから一ヶ月以上が経つ。
その間、ロックの世界は、世界中が大騒ぎで、世界中が追悼モードとなり、この偉大なギタリスト、偉大な音楽家の功績をあらためて振り返る機会となっていたと思う。

そして、今月、エディの息子であるWolfgang Van Halen (ウルフギャング・ヴァン・ヘイレン、以下ウルフィー君)の「デビュー」となる楽曲が発表された。

多くの人は、もう見たのではないかと思う。すでに聴いたのではないかと思う。その楽曲を。

 

僕もすべてのニュース、すべてのインタビューを追えているわけではないが、ウルフィー君が父親であるEddie Van Halenに捧げた曲、”Distance”は、iTunesのチャートで一位となった。(Billboardでは、最初の週に”Hot Hard Rock Song”で1位。細分化された現代のチャートの中で、凄いのかどうか基準がわからんが、1位はやっぱり素晴らしい)

今の時代にチャートといったものがどれだけの意味を持つかはわからないが、またチャートというものは昔からいつだって相対的なものに過ぎなかったと思うが、
それでもiTunesのチャートの一位に、このウルフィー君の楽曲が三日間の間、ランクしていたことは事実だ。

 

かの今をときめくビリー・アイリッシュが二位にいる、その上にウルフィー君の楽曲が来ていたことは、ほとんどジョークのような象徴的な出来事であった。それは、今年のことか去年のことかもはや覚えてないが、Billie EilishがJimmy Kimmelの番組に出た際に、「ヴァン・ヘイレンなんて知らない」と発言して物議をかもしたことがあったので、(そしてその後で、ファンの間で論争となったが、ウルフィー君本人が、『音楽は人を結びつけるものであって、分断するものではない」と発言して収まった、ということがあった)、そのBillie Eilishよりも上にウルフィー君の楽曲がランクしていることについては、たぶん「ああ、これは」と思ってネタにした人がたくさんいるに違いない。

この記事だね。
https://www.rollingstone.com/music/music-news/billie-eilish-van-halen-920487/

 

先月、書き記したように、ネットでVan Halen関係のニュースやフォーラムを見ていれば、多くのファンは「もう長くない」ことは当然わかっていたと思うし、僕は自分の中でのEddieとの別れは、その意味では一年前にすでに済ませてしまっていたので、驚きではあったが、決して青天の霹靂ではなかった。

そして、先月、書き記したように、自分の音楽人生の中において、”Van Halen”という物語に関しては、すでにフルサークルとなり、答が示され、完結していた。それは、きちんとハッピーエンドとなる答であり、物語だ。少なくとも僕の人生の中では、Van Halenという物語はそのようにきちんとした答えを持つものとして示され、完結した。

 

そしてまた、先月書き記したように、僕は、この自分にとって最大の憧れの人であるEddie Van Halenの死を以て、自分の中で何年もの間「止まっていた時」が、再び動き出すのではないかという予感を感じていた。

それは、自分にとってある意味Eddie以上のヒーローであるbloodthirsty butchers吉村秀樹氏の2013年の逝去以来、僕の中では時間が止まってしまっていた、世界そのものが止まってしまっていたからだ。

そして、その予感はやはり、おそらく、間違ってはいなかったように感じている。

 

 

ウルフィー君、Wolfgang Van Halenの、今は亡き父親に捧げたこのデビュー曲は、僕にとっての”Van Halen”という物語の答え合わせでもあった。

楽曲を聴いて、そしてビデオを見て、とても大きな衝撃を受けた。
ある意味、2012年の”A Different Kind Of Truth”よりも大きな衝撃であったかもしれない。

 

一聴してアナログ録音とわかるぶっといサウンド。
そして、すがすがしいほどにストレートでまっすぐなメッセージを持ったロック。

正統派、だとか、王道、なんてものが形骸化して久しい、あまりにも久しい現代の世界において、こんなにあるべき姿を持った「ロック」を聴いたのはいつ以来だろうか。

 

サウンド自体は、非常に「90年代的」だと感じた。

同時にラジオで公開されたもうひとつの楽曲、”You’re To Blame”にもその傾向は顕著だったが、1990年代な骨太なオルタナティブ的な要素も多分にありながら、そこには間違いなく1990年代のVan Halen的なサウンドが感じられた。

特に非常にパワフルにプレイしながら、攻撃的にコンプレッサーで潰されたドラムサウンドに、それは顕著に現れていた。誤解を恐れずに言えば、Van Halenの1991年の”For Unlawful Carnal Knowledge”のサウンドを彷彿とさせるものだと、僕には感じられた。

これは、同じ場所、つまりEddieのスタジオである”5150 Studios”で作られた音楽、という意味では、必然かもしれない。
けれども、そこにはやはり、父親の鳴らしたサウンドを引き継ぐ、という意志が感じられる。

 

今時ありえない、といった感じのアナログな音にも驚いた。
そうそう、当時のロックは確かにこういう音だったんだよ、という、そんなアナログ録音の音を、この2020年にメインストリームでやってしまうということに、ものすごい衝撃を受けた。(今の時代にあっては、ものすごく贅沢なことだろう)

Howard Sternのインタビューでもテープで録音しているという旨の発言があったが、ウルフィー君のtwitterでの発言からすると、テープマシンで録音して、編集にはProToolsを使う、という手法のようだ。

 

 

そういうことをやっている人は、結構いるはずなのだが、これほどまでに生々しくアナログな「昔ながらの」サウンドに仕上げてきたのは、本当に素晴らしいと思う。

 

楽曲自体は非常にストレートで、ソングライティング的にはシンプルと言えるものだ。
だけれども、そこに込められた才能はやはりとんでもないものがある。

ウルフィー君が「Van Halen一家」の人間として、EddieやAlexに負けない才能の持ち主であることは、”A Different Kind Of Truth”を聴けば明確にわかることだと思う。

しかし、この”Distance”を聴いただけでも、すべての楽器やヴォーカルを一人でこなしたという事実を含め、そしてリードシンガーとしての歌唱の技量を含めても、「凄い」「ものが違う」と思わされる。

ストレートなロックを、今時ありえないアナログなサウンドで、しかも今時ありえないほどのストレートなメッセージ性で、これほど痛快なほどに突き抜けるほどの勢いでまっすぐに鳴らしてしまう、というのは、古臭いようでいて、実は今の時代らしいのかもしれない。

楽曲のフォーマット自体は新しいものではないが、かといって、サウンドやプレイの要所要所には、やはり新しい世代ならではのボキャブラリーが感じられる。

王道の「ロック」を継承すべき「正統」な後継者として、これ以上ないほどにふさわしいサウンド。
すでに世界中のファンや、ミュージシャンたちが絶賛していると思うが、僕も本当に衝撃を受けた。

 

 

もうひとつ、これは些細なことだが、ウルフィー君は、Van Halenで父や伯父と一緒にベーシストとしてツアーに出るようになったティーンエイジャーの頃から、「太め」の体形ということが言われていた。

そして、その太めな体形は、今でもばっちり維持されている。
彼が自分のバンド名、アーティスト名として、Van Halenの前身バンドである”Mammoth”の名前を選んだのは、これ以上ないくらいに気が利いていて、僕もとてもクールだと思うが、「お前の体形がマンモスだよ」と突っ込みたくなった人も、たくさんいるに違いない。

しかし、ちょっとでもアメリカ人と付き合いがあれば誰でも知っていると思うが、昔は知らんが、現代においては、アメリカ人はあれくらいの太めの体形が標準であると思う。

だから、現代のアメリカ人男性を代表するロッカーとしては、むしろあの太めの体形を、恥じることなくキープすることが、なんだか今っぽいと感じる。

かつて、その昔、たとえば1980年代とかは、スタイルの良いイケメンがスターになっていたわけだ。
1990年代のオルタナティブ以降はその傾向は薄れていったと思うけれども、「太め」の体形を維持しているウルフィー君は、現代においてはたぶんむしろ、普通にかっこいい。
ロックミュージシャン、とか、セレブリティであることの意味合いも昔とは違っている。

そういうところも、時代だなあ、と感じる。

 

 

Fame、名声、ということについても書き記しておきたい。

ウルフィー君には、”Hater”がいっぱいいる。
ヘイター、というか、ネット上、フォーラムや、ソーシャルメディア上で、ウルフィー君を批判する人々が、なんだかしらないが、たくさんいるのだ。
しかもそれは、意外と、「昔からの熱心なdiehardなVan Halenのファン」の中に多かったりする。

今の今まで、ヴァン・ヘイレンの古いファンの人々が、ウルフィー君を嫌う理由がわからなかった。

というか、普通になんでウルフィー君を皆が嫌うのか、わからなかった。

けれども、今回の彼のデビュー曲と、その成功を見聞きして、ちょっとだけ、その気持ちがわかったような気がしている。

 

ウルフィー君は、確かにすべてを持っている。

父親、両親から受け継いだ音楽や芸能の才能。しかも、とんでもない才能。まさにサラブレッド。
(個人的には、Eddieはシンガーとしては優れていなかったが、ウルフィー君が「歌える」のは、イタリア系である母親の血統が良い方向に作用したのではないかと推測している。)

世界でもっとも偉大なロックギタリストの息子という立場。
だからこそ素晴らしい人脈も持っている。
人気、実力ともに当代一といえる数少ない本物のロックバンドAlter Bridgeのメンバーとの親しい関係は言うまでもないだろう。(Alter Bridgeの前身である伝説のバンドCreedは「クリスチャンメタルバンド」であったことも、僕としては見逃せない事実だ。)

ビジネスの上でも、EVHブランドの経営を引き継ぐことになる。

もちろん、有名人の息子であることは、祝福でもあっただろうが、同時に呪いでもあっただろう。これは、彼もインタビューで何度も語っている。
これは、「有名人の息子、娘」という立場になってみないとわからない。彼もインタビューの中で、ロビン・ウィリアムズの娘とそういった話題で共感し合ったというエピソードを語っていた。

 

彼はソロアルバムの制作に取り掛かって以来、こうやって実際に楽曲を発表してデビューするまでに、結構年数がかかった。29歳にしてのやっとのソロデビューは、ロックミュージシャンとしては遅咲きと言えるだろう。

けれども、こうしてデビューして、いきなり凄い話題となり、チャートのナンバーワンを獲得し、何百万という再生数を獲得してしまう。
(もちろんその数字が、トップクラスのアーティストと比較してビジネス上、大きい数字なのか、小さい数字なのか、ビジネスに疎い僕は知らない)

 

僕は、成功という意味では、ほんのかけらほどの成功しか持ってないし、もっと言えば、本当の意味ではなんにも成功していない無名のインディバンドの人だ。
そんな僕が、小さな数字を必死で眺めている間に、ウルフィー君は、ぱっとデビューして、いきなり世界的な話題となってしまう。

そういう事実をちゃんと見ると、やっぱり嫉妬したくもなる(笑)

けれどもそれは、逆に考えると、Fame(名声)というものの本質に気付かされることでもある。
Fameなんていうものは、安っぽい。
Fame、名声、なんていうものは、しょせんその程度のものなのだ。

世界一のロックギタリストの息子として生まれたウルフィー君は、間違いなく、生まれながらにしてそのFAMEってやつを持っている。
そして、間違いなくウルフィー君は、「選ばれた人」だ。

 

そういった、二世タレントみたいな人は、特に今の時代では、世界中にいるだろう。
日本でもそういった人々が何人も話題になっているし、イエモンの人とか、バクチクの人とか、それとワンオクの人とか。もうちょっと古いところではドラゴンアッシュの人とか。

そういった「選ばれた人」は、やっぱり凄い。
ウルフィー君にも、そういった「凄さ」を感じる。
凄いも何も、そういった「選ばれた人」の中でも、彼は抜群に凄いものを持った、「選ばれた人の中で、さらに選ばれた人」なのだ。

でも、その割には、彼はやっぱり冷静だ。
それはもちろん、父親のことを、良い時も悪い時も、ちゃんと見ていたからだろう。
そのへんの妙な冷めた冷静さも、二世タレントならでは、と言えるかもしれない。

 

そして、このあたりでさらっと大切なことを書き記しておくけれども、
僕が本当にウルフィー君に嫉妬したのは、何より、他でもなく、Eddie Van Halenという、現代の地球上でもっとも偉大だった音楽家に、誰よりも愛されていた人間だった、というそのことなのだ。

 

なので僕は、今回、はじめて、ウルフィー君に嫉妬して「やっかみ」みたいになる人の気持ちがわかった。

けれども、「嫉妬」という感情について書き記しておきたい。自分のために書き記しておきたい。

嫉妬とひとくちに言ってもいろいろあると思う。
また、嫉妬とは、自己否定や劣等感と表裏一体でもあると思う。

また嫉妬とは愛の裏返しであったりもする。
嫉妬とは必ずしも、いつもいつも悪いものであるとは限らない。

人間は人に嫉妬する時、つまり人を羨ましい、と思うとき、その相手のことをとてもよく見ている。とてもよく観察している。

嫉妬して、その人を観察する、ということは、とても大きな学びの機会でもある。
人は、自分に無いものを持っている人に対して嫉妬するのだ。ある意味、恋と同じだ。
だから、自分に足りないものを自覚し、自分に足りないものを学ぶ、とてもよい機会になる。
そうやって、人は、自分を、そして相手を、知っていくものだと思う。

ごくごくあたりまえのことを書いている。

 

そして嫉妬ということについて言えば、
僕は、普通であれば、周囲のありとあらゆる人に対して嫉妬しなければならない立場の人間だ。

たとえば、ミュージシャン仲間、バンド仲間、音楽つながりの知り合い。
あちこちで出会ったり、対バンしたり、一緒に何かをやったミュージシャンの人々。

彼らのほとんどは、僕なんかよりも、よっぽどうまくやっている。
特に年齢が上がれば上がるほど、出会うミュージシャンは、皆、ほとんどと言っていいほど、僕よりも成功しているのだ。

それは、どのジャンル、どの分野にも言えることだ。

そして音楽の世界だけを見てもそうであるから、人として、社会人として、人間一般として考えた場合には、僕は人生において、会う人会う人、ほとんどすべての人は、「自分よりも優れた人」ということになる。

これをまともに考えると、とても深刻な劣等感を抱えることになる。
そして、実際に、結構な劣等感を、僕は常時抱えている。

 

そんな人生を選んだ僕だからこそ、僕は人を羨んだり、人と比較したり、嫉妬することに関しては、自分なりのルールを持ち、自分にブレーキをかけてきた。
ただし、実際には、自分は出会うほとんどすべての人に対して、自分には足りないものが多いがゆえに、嫉妬と羨望を感じていたと言っていい。

だからこそ逆に、きりがないから、疲れるから、僕は嫉妬することをとっくの昔にやめた。

ただ、数少ない、選ばれた人のみを、自分の中で、目標としたり、負けまいと勝手にライバル認定したり(これは、ただ一人だけ、とても特別な人です)、してきた。

 

だが、ここへきて、ウルフィー君のデビューにより、僕は、理想的な目標を得た。
つまり、僕は、ウルフィー君に対してだけは、堂々と嫉妬してもいいのだ(笑)

だって、こんなに凄い奴で、こんなにすべてを持っていて、あのEddieの息子で、あまりにも凄いじゃないか。
だから、この人には堂々と嫉妬しても大丈夫なのだ。

 

 

さあ、そして、いちばん大切なことを書こう。
答え合わせをしよう。

Van Halenという物語の答え合わせを。
音楽家として、人生の答え合わせを。

 

僕が、このウルフィー君のデビュー楽曲、”Distance”を聴いて驚いたのは、衝撃を受けたのは。
その力強いアナログサウンドももちろんんだけれども。

それがちゃんと、”Van Halenの音”になっていたことだった。
というよりも、「Van Halen家からの音」だったことだった。

 

どう説明したらいいのだろう。

僕はサミー時代のVan Halenと、デイヴ時代のVan Halenで言ったら、本質的にはデイヴ時代の方が上であると思う。

けれども、自分は90年代世代ということもあり、サミー時代、そして90年代のVan Halenには非常に思い入れがある。

特に、エディが「中年以降」となってからの1990年代のVan Halenに顕著であった、あの「あたたかさ」は何だったのか。

そして、サミー時代に限らず、Eddie Van Halenのプレイに一貫して流れていた、非常に素直で、純粋で、vulnerableとしか言いようのない、どうしても笑顔になってしまうような、微笑まずにはいられないような、あのメッセージ性は何だったのか。

 

だからこそ、Eddie Van Halenは僕の少年時代のヒーローだった。
別にギターのテクニックが凄いから、とか、ヘヴィなサウンドだから、とか、そういうのは全然関係ない。だって、僕がロックを聴いていた90年代にはすでに、もっと速いギタリスト、もっと上手いギタリスト、もっとヘヴィなギタリスト、いくらでもいたもの。

でも、あんなふうに、心のままに、素直な心を、ありのままの気持ちを、音にして表現してしまうようなギタリストは、他にはいなかった。速いとか、遅いとか、上手いとか、下手とか、そんなの全然関係なくて、もっとそれらを越えた次元で、エディのギターはまるでハートと直接つながっているようだった。
そこから鳴らされたメッセージが、どれほど自分を自由にしてくれたか。どれほど自分を勇気づけてくれたか。
それは、ファンだったらきっとわかるはずだ。

 

そうでなくても、”Dreams”のシンセサイザーのメロディに涙した人は、世界中にたくさんいるはずだ。

そして、僕は、かの1998年の”Van Halen 3”からの幻の未発表曲、”That’s Why I Love You”に、なぜあれほど心を動かされ、なぜあれほど涙したのか。

そして、その続きの音を、どれほど聴きたいと思ったことか。

 

そして今、「その続きの音」が、確かに、世界に届けられた。

そこにあるのは、「家庭」というものかもしれない。
「ヴァン・ヘイレン家」から届けられた音なのだ、これは。

家庭。
あるいは親子。
あるいは生活。
あるいは人生。
そして、あるいは、愛。

そういう、ありふれた、けれども、かけがえのないものを、それにきちんと向き合い、まっすぐに鳴らし、表現する力。
それこそが、何よりも、他のどんなものよりも、もっとも力強い、もっとも大切な、Eddie Van Halenの才能だった、ということに、たぶん世界は、今、やっと気が付いている。

 

もちろん、人間というものは完璧ではない。
Eddie Van Halenという一個人が、人間として完璧であったわけではない。
エディの人間性について、非難する者はたくさんいる。それらは、あながち的外れではないと思う。実際、多くのロッカーの例に漏れず、アルコール中毒や、ドラッグ等の問題を抱えていたわけだし。

けれども、彼は、エディは。
たとえば家庭の中で、良き夫ではなかったかもしれない。常に完璧な父親ってわけでもなかったかもしれない。

だけれどもエディは、「良き父親」であろうとしたのだと思う。
その気持ちにはたぶん、嘘はなかったはずだ。

そして、それこそが、Eddie Van Halenの音楽にとって、もっとも大切なものだったのだ。

 

そのエディの愛情を一身に受けて成長した、Wolfgang Van Halen a.k.a. Mammoth WVHの、そのサウンドを聴いて、僕は、そのエディの父親としての愛情が本物であったことを、その絆の強さを、そこに込められた真実を、体感したように思う。

Eddie Van Halenのギターサウンドに込められたメッセージが、愛への渇望であり、愛の叫びであったとすれば。
父親となったEddieが鳴らした、1990年代のVan Halenのサウンドに込められた、大きく、あたたかな感情は。
それは、家庭というものであり、親子というものであり、父親としてのものだったのだ。

そして、僕は間違いなく、その大きな愛情にこそ、心を動かされ、涙したのだ。

 

話題となっているように、
Mammoth WVHの楽曲、”Distance”。
その父親に捧げた歌詞だけでなく、ビデオも衝撃的だ。

そこに映る、1990年代当時のエディの、なんてかっこいいことだろう。
なんか、ほんとに、いちファンとして、これは、どんなライヴ映像よりも、どんな若い頃のミュージックビデオよりも。

息子であるWolfgangを愛している「父親」としてのエディは、今までに見たどんなエディよりも、「かっこいい」んですけど。
本当に、すごくかっこいい。

そして、同時に、やっぱりウルフィー君に嫉妬する。
あんな偉大な音楽家である父に、これほどに愛されたら、それは、きっと自分だって、すごい音楽が鳴らせるはずだ。

 

1999年以降、Van Halenの活動は、実質停止していたといっていい。
時折の再結成ツアー以外は、ウルフィー君のインタビューの発言から推察しても、2012年の”A Different Kind of Truth”が作れたこと自体が、やっぱり奇跡的なことだったみたいだ。

だからEddieは、1999年以降、世間から見れば、大した仕事はしていないように見えるかもしれない。

だけれども違った。
エディはちゃんと作っていた。
Wolfgang Van Halenという、最高傑作を、彼はちゃんと育て、作り上げていた。

間違いない。
ウルフィー君こそが、Eddie Van Halenのもっとも偉大な最高傑作なのだ。

この”Distance”のサウンドを聴いて、そしてその衝撃的なビデオを見て、僕はそう確信した。

 

 

人間というものは、何のために生まれ、何のために生きるのだろうか。

その答えは、決してひとつではないだろう。

けれども、ひとつ言えることがある。

それは、人を愛すること。

人を愛するために、人間は生まれてくるのだ。

 

誰かを愛し、その相手に自分のすべてを捧げるために。

なぜなら、愛を学び、愛を行うことこそが、人がこの世界で為すべきことだからだ。

 

それはEddieにとっては、息子のWolfie君であり、
またWolfie君にとっても、父親であるEddieはかけがえのない存在だった。

この楽曲、”Distance”にはその気持ちが込められている。
だからこそ、人々の心に響いた。

 

また、Wolfie君が、少なくとも2018年の段階ではアルバムのリリースの準備が出来ていながら、そのリリースをずっと延期して待っていたのも、いつどうなるかわからない父親の病状のため、ここでアルバムを発表してツアーに出ることは出来ない、という事情があったため、ということが、彼のインタビューの中で明らかになっている。

つまりウルフィー君は、自分のキャリアの成功よりも、一秒でも長く父親と一緒にいることを選んだのだ。僕はその選択に拍手を送りたいと感じているし、そんなウルフィー君をとても尊敬する。(たとえ、生まれながらにして成功が約束されている、としてもだ)

 

そんなふうに、自分の大切なものを引き換えにしても、守りたい、と思える人に、巡り会えるかどうか。

そんなふうに、誰かを愛することが、人を愛することが、この世界で出来るかどうか。

人間にとって大切なことは、やっぱりそれだけだ。

そして、偉大なるロックギタリスト、Eddie Van Halenは、1990年代に、父親となることで、その「かけがえのない存在」を手にしたのだ。だからこそ、「偉大なるサウンド」への扉が、そこにはあった。

そんなふうに、大切な誰かと出会うことが、僕には出来るだろうか、あるいは、出来ただろうか。
その大切な思いを、より大きな何かのために鳴らすことは出来ただろうか。

もちろんわかっている。
わかっているつもりだ。

 

Eddieは、自分のシグネチャーギターに、息子の名前を取って、”Wolfgang”と名付けた。

ウルフィー君は、最近のインタビューの中で(これもHoward Sternだったと思う)、自分のシグネチャーベースを発売して、それに(父親の名前を取って)”Ed”と名付けようか、とジョークを言っていた。

だがちょっと待て。
僕はそういえば、最初から自分のバンドに、大切な人の名前を取って「伊万里音色」と名付けたのではなかったか。

 

僕は人生の最も多感な時期である10代の時代に。
これから人生に踏み出そうとするその若い時代に。
その人と出会った。
(そして、大いに道を踏み外した、笑)

 

世間から見てどうかは知らない。
けれども、鳴らした音に照らしてみれば。

僕の鳴らしてきた音は、決して間違っていない。

これでいいんだ。

俺も、まだまだ鳴らし続けるよ。
皆も、きっとそう思っているだろう?

 

僕がずっと理想として追い求めてきたサウンドは、だいたいそんな感じだ。

 

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