完全なる認識(とか言ってみた)

 

学問っていうのは、人間の認識に関することだ。
学問っていうのは知識に関することだが、知識の先には認識がある。

学問には様々な分野があり、様々な角度から、様々の事象についての知識や認識を深めているが、それらの根本にある認識を得られたとすれば、おそらく末端の知識は不必要なものとなる。(現実的にはやっぱり必要だが、生きる上では不必要となる)

 

完璧な認識っていうのがあるとすれば、
それを得た時、人間はたぶん学問をもはや必要としない。
(音楽理論を学び終えた人が、最終的に演奏するためには、音楽理論を忘れる必要があるのと似ている)

ただ問題は、人間は完全な認識を得た時、おそらくはそれを言語化する術を持たないだろう。
それが出来ないからこそ、芸術家は一瞬のひらめきを得た時、その曖昧な断片を詩の一篇に込めるしかない。

 

完璧な認識ってどんなものだろう。
それはどんな形をしているだろう。

たとえば僕は、それが十字架の形をしていても驚かない。
だが、そもそも僕たちは十字架の形を認識出来ているだろうか。

十字架っていうのは、僕たちの認識でいうと二本の線が交差している形をしているけれど、別の次元から見たら、きっともっといろんなものが交差しているんじゃないだろうか。

 

たとえば聖書は一冊の本の形をしている。
旧約、新約から成り、モーセ五書であるとか預言書であるとか福音書であるとか、それらの部分から成るひとまとめの書物の形をとっている。

だがそれは、霊的な概念で言えば、どのような形をしているだろう。
それを認識することは、果たして僕らに可能だろうか。

 

時々、そんなことを思う。

 

 

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